1話



 車窓からのぞく庭の景色は、あくまで深く、まるでうっそうとした森のようだった。
 石畳の一本道を、ガタガタと鈍い音をたてて車は進む。
 ゆったりとした上り坂になっていた。いきなり深い森のような木群が消えたかと思うと、パッと開けた場所にでる。
 丘の向こうに、藍色の傾斜の高い大きな屋根が、目に入るような仕組みになっているのだ。この庭は。
 車が進むにつれて、みるみる屋敷が姿を現し出す。
 白大理石の煙突。続いて見える白漆喰の壁は、あちこちヒビが入り、くすんで重厚さをかもしだしていた。
 建築当時は白く輝いていたのだろう。
 たくさんある窓のすべてには、ステンドグラスがはめ込まれていた。
 横広がりに広がる洋館。
 なぜかゾクッと背筋に寒気が走る。
 いつも、ここに来るたびにそうだった。
 ・・・畏怖に近い、恐怖のようなものを感じるのだ。
 青ざめた茉莉は首を振り、身をよじって背筋を伸ばす。
 大正時代に建てられたこの洋館は、祖母の住んでいた屋敷と、とても似通った雰囲気を漂わせているからかも知れない。
 祖母の存在を彷彿とさせられるからなのか・・。
 目前の河田邸は、河田家の直系の子供達が住むという。最高の贅をつくした。立派なお屋敷だった。
 車は、ゆるやかに弧を描いて玄関にたどり着く。
 母、茉莉、父の順に車から出て、玄関前の楕円形の広い踊り場に立つ三人に、メイド達は深く礼をした。
「ようこうそ。いらっしゃいませ。」
 の言葉に、茉莉の父・・高野正平は軽くうなずく、彼女達に促されるまま、彼を先頭に、屋敷の中へ入って行く。
 高野正平と、河田の当主、河田和臣とは学生時代からの旧知の中で、ここには幾度も訪れて、知った場所だ。
 玄関ホールは、一面薄いグレイの絨毯が敷かれていて、天井には、木製の小さな明りが、淡い光を発している。
 足りない採光は、漆喰の壁に埋め込まれた照明で補われていた。
 入って右側に、木目も美しい階段が、優美に弧を描いて上の階へ続く。
 茉莉達は、河田当主からしたら、親しい身分にあたり、応接室のような堅苦しい部屋には呼ばれない。
 直接、居間に通されると、河田和臣はすでにくつろいだ姿勢で、ソファに座って待っていた。
 父が顔をのぞかせた途端、彼はパッと顔を輝かせて、
「・・やあ、いらっしゃい。貴美子さんの風邪の具合はどうだい?」
 と、問いかけてくるのを、
「すっかり治ったよ。一時はどうなることかと思ったけれどね。風邪を甘くみちゃダメだな。」
「ホントそうだ。こんにちは、貴美子さん。茉莉ちゃ・・いや、もう茉莉さんだね。しばらく見ないうちに、さらに美しい女の子になったじゃないか。」
「そんなに褒めて何を企んでるんだ?」
 二人で会話を楽しみだすのを、母と顔を見合わせてクスリと笑い、おのおの何も言われないうちに、勝手にソファに座りだす。
 間髪入れずに、部屋の中にいい匂いが漂い出す。
 メイド達が、お茶とお菓子をワゴンに乗せて居間に入ってきたからだ。
「ところで、芳子さんはどうなんだ?」
「昨日は調子良かったんだが、今日はちょっとな。迷惑かけると申し訳ないって、部屋に引っ込んでいるよ。」
 河田和臣は、妻の事を問われると、表情が少し陰る。
 彼の妻は、つい2,3年前から症状が出だして、一進一退を繰り返していた。
 甲状腺の異常から起こる難しい病らしく、それに対する河田の口調も重い・・・。
(ここの奥様は、とてもいい人なんだけどなあ・・。)
 “病”が襲うのは、金のある所ない所、いい人悪い人関係ない。
 そんな事を思いながら、茉莉はソファに浅く腰かけ、優雅にお茶を楽しむ顔をして見せていた。
 内面は緊張でガチガチのクセにだ。
『その手付きは何ですか!』
『姿勢を崩さない。』
『歩く時も、座る時も、瞬間瞬間に、育ちが滲み出てくるものなのだよ。』
『・・・こんな事じゃあ、先が思いやられるわ。根本から、やり直さなければいけないのかしら?』。
 この洋館は、祖母を連想させられる。
 彼女はもういないのに・・・いつ彼女の怒声が飛んでくるか、ビクビクさせられる気分になるのだ。
 意外に祖母から受けた呪縛のような時間が、影響されているのかもしれない。
 かつて、彼女には徹底的にしごかれた。
 茉莉が8才の頃からだった。
 ここと同じ時期に建てられた洋館と和館が繋がった屋敷で、学校にいる時以外の時間は、今から思えば“しこんでもらった”以外ありえないものだったが、当時の茉莉にしてみれば、地獄以外の何ものでもなかった。
 茉莉は高野家直系の血筋の子ではない。
 高野夫妻には、子供には恵まれなかったのだ。
 正妻の腹からは子供は育たず、流産を繰り返した結果。茉莉は、生まれたばかりの頃に、養女として外から連れて来られた子供だった。

 小さな頃は、そんな事情など知らず、高野の父母の元で天真爛漫に過ごせてはいた。
 けれども、ある時突然、本家の祖母の元へ向かうように言い渡されたのだ。
 本家の祖母に、異を唱えれる人はいなかった。すでに高野家の当主として腕をふるっていた父でさえ、祖母の言う事には一言も、反論できなかった。
 祖母の元で、暮らし始めた茉莉を待っていたものは・・・。
 下女のするような仕事を、振られる事から始まった。
 部屋のすみずみまで掃除するのはゆうに及ばず、洗濯。料理の後片付けなど。
 まるでシンデレラのような毎日だった。
『おばあ様は、私を虐めるためにここにおいているんだ。』
 と、童話の中の登場人物を自分にあてはめては、嘆いたものだった・・・。
「・・・ってねえ。茉莉。」
 ふいに声をかけられて、ハッとなる。
 物思いに沈んでいたせいで、両親達の話を全く聞いてなかった茉莉は、とっさに何と言って答えたらいいのか分からない。
 微妙な笑みを浮かべて頷くと、彼等は納得したらしい。
「・・・ほら、こんなに戸惑って・・茉莉にはまだ早い話じゃないかしら。」
 珍しく母が口をはさんでんで、この話題は終了らしかった。
「最近、アメリカの情勢が変わってきているのは、知っているよねえ・・。」
 仕事の話に話題が変わって、茉莉はまた物思いに沈みそうになるが、そうもいかなかった。
「父さんずるいよ。なんで言ってくれなかったんですか?
 茉莉が来てるの。」
 ふいに居間に入り込んできたのは、河田家の次男の河田歩(かわだ あゆむ)だった。
 柔らかな物腰に、ほっそりとした体躯は子供から大人に変わる、はかない美しさを見事に体現していた。
 漆黒の瞳は、生き生きと輝き、茉莉を一直線に射抜いている。
 彼こそサラブレットだった。
 純粋培養のお坊ちゃま。